空から見るホーチミン市 とマスタープラン
ホーチミン市とサイゴン川
ベトナム南部はもともとチャンパ王国(チャム族)とカンボジア(クメール人)のエリアでした。
ベトナムは南下してそれを取り込んだのが17世紀。南部弁は少なからず、クメール語とチャム語の影響を受けています。
サイゴンがカンボジア領の頃はプレノコール(森の中の街)と呼ばれ、サイゴン川と森に囲まれた小さな漁村でした。
カンボジアにとっては、辺境の小さな村だったのでしょうが、ベトナムにとってもフランスにとっても南部の重要な拠点となっていきます。
フランスのベトナム植民地化は、南部から始まりました。
東南アジア進出を狙っていたフランスは、1859年にサイゴンを攻撃し、続いて1860年に開港宣言をします。
1862年には、とうとう南部ベトナムがフランスに割譲されて、フランス直轄植民地コーチシナとなります。
100年前のサイゴン空撮をカラー化した画像がすごい!
・大聖堂
・人民委員会庁舎
・ノロドム宮殿(
現在は統一会堂になっている)
・ベンタン市場https://t.co/QuouyDEWJl pic.twitter.com/C7GHNQy7Dv— Koike Yusuke (@yusukekoike21) May 19, 2020
政庁の公共事業担当の部局、軍の工兵隊、民間開発会社といった、植民地都市の開発を担う主体がサイゴンを基盤に活動をはじめ、フランスがインドシナでの版図を広げるとともに、このシステムがハノイへと持ち込まれます。フランスはサイゴンをイギリスの植民地であるシンガポールをモデル都市としていたそうです。
マルセイユからは多くの商人がサイゴンに進出し、東南アジアにおける最初のフランス植民地都市として発展していきます。
豊かなサイゴン川は、商業港としてのサイゴンの発展に寄与してきました。
ベトナムが南北に分断されてからは、御存知の通り南ベトナムの首都としてアメリカ政府の傀儡政権の中心都市でありました。
ドイモイ政策が始まってからは急速な発展を遂げます。
1996年には、日本人建築家丹下健三が「サイゴンサウスプロジェクト」として、いまの7区周辺のマスタープランを行っています。
しかし、結果的にはあまりそのマスタープランが反映されていないように見えます。
1996年丹下健三が行ったサイゴンサウスプロジョクとは、現在クレセントモールがあるあたりのマスタープラン。
7区の開発は成功だと思うけど、丹下健三のマスタープランはあまり反映されていない様子。
放射状の都市も見てみたかったなぁhttps://t.co/VNwv9toLhM pic.twitter.com/jeHs0M3KGJ— Koike Yusuke (@yusukekoike21) April 24, 2020
いまは、多くの観光客を魅了するホーチミン市。
空から眺めると、ランドマーク81をはじめ、次々と高層ビルやマンションが乱立する新興都市が、大きいサイゴン川に囲まれているのがわかります。現代でも交易都市して2区にあるカトライ港がベトナム南部輸出入の重要な窓口となっています。
ホーチミン市のマスタープラン
ホーチミン市のマスタープランがみれるサイトがオープンしました。
GOOGLE MAPの感覚で、気になる地域をアップして確認できます。
ホーチミン市の都市化はすごい勢いで進んでいます。
ベトナム人写真家Lưu Thiện Toànが、ホーチミン上空で宝石箱を開けたようです。 pic.twitter.com/Nw3F43cTxc
— Koike Yusuke (@yusukekoike21) September 10, 2020
筆者プロフィール:Koike Yusuke(デザイナー&マーケター)
木造建築士という建築知識をバックグラウンドに、ベトナム南部で家具のマーケティング・デザイン・商品開発をしています。ベトナム史が好きなので、ベトナム建築を古代から現代まで調べて、このブログで紹介しています。建築や家具、デザインはもちろん、ベトナム史やビジネスについて語り合える方募集しています。Twitterやインスタでお気軽にDMください。
資格:木造建築士 / カラーコーディネーター1級(商品色彩)
Twitter @yusukekoike21
Instagram @ample.style
メール:amplestyle108★gmail.com(★を@に変換)
この記事へのコメントはありません。