身近な人の死が変える日常生活

死別の辛さは別れる瞬間よりも、日常生活の中に大切な人がいない、と感じる瞬間ではないだろうか。

12月は師も走るほど忙しいから師走という。
しかし、我が家に起きた悲劇は、12月という季節に関係していたのだろうか。

悲劇の始まりは、12月1日(土)だった。

2018年12月1日(土)

その日の朝、休みだった僕は、息子を幼稚園まで送りに行った。
そこで、馴染みの太った警備員に話しかけられた。

「おれも田舎がタイビンなんだ。お前の奥さんと一緒だよ。今度いつタイビンに帰るんだ?」

テト休みも2ヶ月後に控えていたし、警備員は挨拶代わりに話しかけてきたのだろう。

そういえば、長らくタイビンに行っていない。

最後にタイビンへ行ったのはちょうど二年前、従姉妹の結婚式のためだった。

タイビンは、ベトナム北部にある田舎街だ。

ハノイから南東へ約100キロの場所にある。港街ハイフォンの方が近く、ハイフォンの空港から車で1時間半ほど走ったところに妻の故郷の街がある。

「いや、まだ予定ない」

とこの愛らしく太った警備員には答えた。

まさか、この時にはタイビンへ行く日が1ヶ月後に迫っているとは思いもしなかった。

夕方も朝同様に、僕が息子を幼稚園まで迎えに行った。

そして僕が住むビンズンにある、義姉の家へ戻ってくると、

「お義母さんが倒れた」

と聞かされた。

僕の妻には、5つ上の姉と2つ上の兄がいる。
お義母さんは、義姉(妻の姉)と一緒に暮らしていた

義母は、その前日バスでタイビンへ向かったばかりだった。僕がいるビンズンから北部タイビンへは長距離バスだと25〜26時間ほどかかる。

約1550キロあるから、日本なら本州最西端の下関から最北端の青森県までバスで行くようなものだ。

しばらく故郷に帰るということで、義母とお別れの挨拶をしたが、このときは元気そうだった。

しかし先程、タイビンの病院へ運ばれて、心臓だか肺が悪く、呼吸ができないので人工呼吸器を付けている状態だという。

しばらくすると、義兄がやってきた。
家族揃って、タイビンの病院からの連絡を待ち待機していた。
ところが、夕食を終え、夜7時過ぎてもはっきりした情報が入ってこない。
4歳の息子もいるし、一旦家に帰り連絡を待つことにした。

ベトナムでの医療不安は何年経っても変わらない。

地方都市の病院には、腕のいい医者はおらず、最低限の医療機器しか揃っていない。
だから、病気が重くなると、みなハノイかホーチミンにある大きい病院へ移動する。
みんなやってくるから、病院は患者で溢れている。
この市立病院に入りたくなければ、国際病院に入るしかない。しかし、国際病院は治療費が高い。よほど裕福な家でなければ選択しない。
けれども、人の命がかかっているんだから、国際病院にかかる選択肢も検討すべきだったと思う。
うちの親族は、お金に困っているわけでもない。
ただ、地方で暮らしていると、そういう選択肢さえ思い浮かばないのだ。

夜8時を過ぎ、息子が寝る時間が迫った頃、妻の電話が鳴った。


義母がハノイの病院へ移動することになった。 

危険信号が灯った。
万が一ということもありうる。

急遽、僕の妻と義姉と義兄は、兄妹3人で飛行機のチケットも持たず空港へ向かった。

それが、2018年12月1日(土)の夜だった。出発した頃はもう夜の9時を過ぎていた。

もちろん、僕はお義母さんのことが心配だった。
一方で、4歳の息子がママなしでいつまで暮らせるか、
それも気がかりだった。

しかし、4歳でも「おばあちゃんが入院した」とういう意味は理解しているらしく、夜はグズらずに眠りについた。

妻と義姉たちは、空港で飛行機のチケットを買い、23時の便でハノイへフライトできた。

2018年12月2日(日)

翌日の朝、妻へ電話した。

お義母さんはなんとか一命をとりとめた。
しかし、まだ人工呼吸器は外せず、会話ができる状況ではないらしい。

妻は、義母の面倒のためしばらくハノイの病院に泊まることなりそうだ。義理の姉と兄は先に戻ってくることに。
ということは、しばらく僕は息子と二人きりの生活になる。
ここが日本だったら本当に大変なことになっただろう。
僕がワンオペで仕事と子守を両立できるわけがない。

妻がいなくても僕が安心して仕事へ行けるのは、息子を1歳のころからみてくれている乳母(お手伝いさん)がいるからだ。
朝と夕の幼稚園までの送り迎えはこの乳母がしてくれる。細かい雑用なんかもいつもこの乳母やってくれるからいろいろ助かる。

また、息子にとっても第二の母のような存在。だから、ママがいなくてもなんとか寂しがらずに暮らせていけた。ベトナムだからこそできる生活スタイルだ。

それでも、夜は僕と息子の二人きりになるわけで、洗濯物や掃除などをその時間にこなさなければならなかった。正直しんどかった。妻が帰ってくる日が待ち遠しく、一日一日が過ぎるのが長かった。
こんな状況になって、いつもは仕事しながらも洗濯や掃除をこまめにしてくれる妻に、感謝の念がうまれた。

その後、妻から連絡があり、

「一週間は戻れない」

とのことだった。
病院に泊まり込みで、義母を看病する妻は大変だったと思う。この季節のハノイは寒く、弱っている義母の体にこたえたようだ。


土曜日にハノイに入院した義母も、数日後にはなんとか病態を持ち直し、翌週の木曜日には故郷のタイビンの家へ戻ることができた。

しかし、一人で歩くのもままならないので、タイビンでも妻は義母につきっきりだった。

書き忘れていたが、妻の父は、妻の幼少期に亡くなっている。
母子家庭で育ったというのは僕と同じだった。
ただ、姉と兄がいる3兄妹という点が違っていた。また、親類の結びつきも強かった。
親戚同士が本当に仲がいい。

うちの家庭とはそこが違った。
僕は生まれてからずっと母しか家族がいなかった。
母は5人兄妹で、僕にも従兄弟は多いが、残念ながら従兄弟同士の結びつきはない。
なぜなら、母が他の兄妹とあまり仲良くないからだ。

叔父たちとの溝が埋まったのは、僕の結婚式のためにわざわざベトナムに来てくれたあとくらいからだろう。

「母に万が一があったときのこと」
は考えたくないが、考えることを逃げてはいけない問題だと思う。

母を一人日本に残し、ベトナムに住む僕は、いざとなったら叔父たちを頼るときがやってくるのだ。


ともあれ、ベトナム人の親類血縁関係の絆は強く、僕にとっては妻が羨ましかった。

ベトナムでは血縁関係で助け合う習慣があるから、義母の兄弟夫婦や従兄弟にあたる彼らの息子娘が義母の面倒をみてくれたのは言うまでもない。

長い一週間が終わり、僕も息子も待ち焦がれた妻の帰りは、2018年12月9日(日)のことだった。

しかし、義母はこちらに戻れるほどの元気はなく、田舎に残った。妻と入れ替わりに義兄が田舎のタイビンへ向かった。

義母は、こちらに帰ってこれるのだろうか。
そもそも、義母にとっては生まれ故郷で過ごすほうが幸せなのではないだろうか。

しかし、義母にとっての最愛の息子と娘そして孫は、ベトナム南部のビンズンに住んでいる。
僕の妻を含めて、義母の子どもたちはみな、ビンズンに帰ってきて一緒に住みたいと願っている。何かあっても近くにいれば安心だ。

ところが、義母はビンズンへ戻ることを拒否している。
やはり故郷にいたい想いが強いのかもしれない。

義母は1947年生まれだ。
その当時のベトナムは、太平洋戦争が終わり日本兵がいなくなった後、フランスが戻ってきてまた支配を強めようとするが、ベトナムも独立に向けて立ち上がり始めた頃だ。そして、さらにアメリカがベトナムに介入し、ベトナムは複雑な状況に陥っていく。

そして義母が成人した頃の1967年といえば、ベトナム戦争真っ只中だ。翌年の1968年にはテト攻勢が起こる。
タイビンは、ハノイから100キロ離れていたから爆弾は落ちなかったかもしれないが、同じ年頃の男性は戦争へ駆り出されていったはずだし、まったくベトナム戦争と無関係だったわけがない。

そういえば、義母には二人の弟がいる。
僕にとって叔父に当たる人だ。
彼らの腕をみると数字が刻まれている。
これは、まさに戦争へいった証拠だ。兵士の死体の識別のために、生まれ年を入れ墨してあるのだ。

ベトナム戦争が終わったのは、1975年と言われるが、サイゴン陥落後も戦争自体は続き、ベトナム軍のカンボジアへの侵攻、そして中越戦争を経て、カンボジア和平パリ協定が調印されるのが1991年。

1947年生まれの義母は、44歳になってやっと戦争から開放されたのだ。ドイモイ政策が始まり、ベトナムはそれから発展の一途をたどる真っ只中だ。

日本にはもう太平洋戦争の経験者は、ほとんどいない。
しかし、60代以上のベトナム人はベトナム戦争を経験している。
当時は死というのがいまよりも身近にあったはずだ。兵役経験者であれば、人を殺したり、仲間たちが殺された姿も見たかもしれない。

僕たちは、普通に暮らしていて死に出会うことは、めったにない。だから死について考えることもあまりない。はず。
とはいえ、天災続きだった2018年は、日本に住む多くの人にとって、死を身近に感じた年なのかもしれない。

結局、義母は僕たちが住むベトナムの南部ビンズンに帰ってきた。
それは、慌ただしく三兄妹がハノイへ飛び立った日から約3週間後の12月20日ことだった。
久しぶりにあったお義母さんは病人そのもので、生命力を感じられなかった。つい一ヶ月前は、元気にしていたのに、ひどい変わりようだった。

それでも、妻も義理の姉も、近くに母がいるということで、安心していた。
いつもの日常が帰ってきた。そんな気分になっていた。

しかし、それから数日後の12月24日にお義母さんは、逝去されることになる。

2018年12月24日(月)

クリスマスイブ。
元フランス植民地であったベトナムには、キリスト教徒が7%ほどいる。教会も多く、ベトナムでもクリスマスは大きなイベントの日だ。

このクリスマスイブの朝、義姉に連れられて、義母はホーチミン市内の病院へ出かけた。

月曜日だったから、僕と妻はもちろん仕事。
仕事終えた僕たち夫婦は普段どおり、17:30ころ義姉の住む実家に到着。
義姉と義母は、まだ病院から戻っていなかった。クリスマスイブの渋滞に巻き込まれているのだろうか。

この日が、クリスマスイブでなければ、僕たちは普段どおりの生活を続けていた。

義母と義姉家族と揃って夕食をとるのが習慣だ。

しかしクリスマスイブの夜は、各所でイベントが行われているから、夜になると渋滞が始まる。
渋滞を避けたい僕たち夫婦は、義姉と義母の帰りを待たずに、帰宅することにした。

もし、このとき義母の帰りを待っていたら、何かが変わったのだろうか。

ベトナムでは、クリスマスイブにチキンを食べる習慣はない。が、せっかくクリスマスイブなのでチキンの丸焼きを買って帰ることにした。
途中でチキンを買って、家に着いたのは18:00頃。


この頃、入れ違いで義母たちは義姉の家に着いていた。

夕食の前にシャワーを浴びて、メインディッシュのチキンとパンなどをテーブルに並べ終えたのが18:30頃だった。
さあ、これから食事だ。

というタイミングで、妻の携帯が鳴った。

義姉からだった。

食事中だから、ハンドフリーモードにしての会話。

しかし、義姉からの第一声が、よく聞き取れなかった。

妻が聞き返すと

「お母さんが死んだ」

と泣き叫ぶような声が聞こえてきた。

この瞬間から、天災が起きたときのような、非日常の生活が始まる。

とにかく、まずは義姉の家へ行く。

妻は着の身着のまま出かけようとしたから、着替えを促した。妻はもう既にパニック状態だ。

着替えを終えたらと貴重品だけ持って、家を飛び出した。

テーブルには料理が並べてあるが、それを片付けている余裕なんてない。息子が料理を食べたがっていたので、一切れのパンだけ持って連れ出した。

僕の家から、義姉の家まではバイクで7〜8分の距離だ。
ここで焦ってはいけない。僕が落ち着かないでどうする。
ここで事故ったら最悪だ。気持ちを落ち着かせながら、それでも焦る気持ちの方が強く、でもなんとか無事故で義姉の家までたどり着いた。18:45くらいだろう。

部屋に入ると、リビングに置かれたセンターテーブルの上に義母が横たわっていた。

それを数人が立ち尽くし囲んでいる。

医者の姿も目に入った。

そして、義姉が義母にすがって泣き叫んでいる。そして、妻もすぐに義母に抱きつき泣き始めた。

義姉の息子と娘は立ち尽くし、その様子をみている。10代の彼らにとっては悲しみよりもショックの方が大きいのだろう。

義姉と医者がなにか話している。

「死んでるわけがない!しっかりと確認して!!」

と泣きながらうったえる義姉

しかし、医者は首を横にふる。

「さっきまで、話していたのに、死ぬわけがない。とにかく、病院へ連れていって!!」

子供がダダをこねるように泣き叫ぶ義姉。僕の妻もそれに続く。もちろん、涙で溢れている。

僕は、義母の顔を覗き込んでみた。

目は閉じて、口は開き、息をしている様子はない。
脚に触れてみると、少し暖かさを感じる。確かに、ついさっきまで生きていたのは確かなようだ。
そして、手首を掴んでみた。脈の動きは感じられなかった。

義姉と妻は、信じたくない母の死。

でも既に、義母は逝去していた。

日本人の僕は、こんなとき何もできない。
というか、何をすべきかわからない。
ここが日本であれば、積極的に行動するのだが、悲しみにくれる妻をみながら、自分の無力さにあきれていた。
僕もただ、この状況にショックを受けて、立ち尽くすしかない無力な男だった。
できたことといえば、わけわからずにはしゃいでいる息子の面倒をみるくらいだった。

義姉と妻のうったえが通じ、とにかく義母を病院へ運ぶことになった。病院といっても、ビンズンにある町医者で、大した設備のない病院だ。

救急車で義母は病院へ運ばれていった。
そして、義母の死が確認された。

つい30分程前までは、いつもと変わらないクリスマスイブになるはずだった。

それが一通の電話で一変した。

今日病院へ行ったばかりなのに、なぜ義母は急に亡くなったのだろうか。

ホーチミンの病院で医者は何をみたのだろうか。

疑問は尽きない、突然の義母の死。

誰もが受け入れられない。

それでも、義母は死んだのだ。

僕にとっても、人の死に立ちあったのは初めてでショックが大きかった。
ただ、それ以上に、義姉と妻が泣き叫ぶ姿に胸が締め付けられた。

これから、遺された家族にとっての試練が始まる。

24日から27日の夕方まで、妻と義姉と義兄はほとんど眠れない日々が続くのだ。

悲しみにくれる時間もなく、母との別れの準備を始めなければならない。

義母の遺体は、義母の部屋に運び込まれた。
枕飾りの準備がはじまった。
部屋には
「南無阿弥陀佛」
と唱える僧侶の声が響いている。

しばらくすると、続々と親類やってきた。あっという間に30人位になった。
義母の遺体と対面し、みな涙している。

義母は多くの人に愛されていたのだ。

仕事終えた義兄もようやく到着した。
そこから、親戚を含めて家族会議が始まる。

葬儀をどこで行うべきか。

どういった日程で葬儀を行うのか。

決まった日程

24日〜25日午前9時までビンズンで通夜

25日午前9時タイビンへ向けて出発

26日午後2時から午後9時までタイビンで通夜

27日午前7時30分告別式 午前9時から葬儀

今夜はここで朝までお通夜を行う。
弔問者のためにテーブルが広げられ、食事や飲み物お酒が準備される。
これらの準備は、親族の若い人たちが積極的に行ってくれた。

このとき、僕は2018年のはじめに亡くなったHさんのことを思い浮かべていた。
Hさんは、僕がはじめてベトナムにやってきた時に、同じ会社で働いていた先輩だ。
ベトナムについていろいろと教えてくれたのがHさんだった。Hさんは65歳という若さで亡くなったが、亡くなり方が突然だった。
仕事の帰りの車の中で、会話しながら息を引き取ったという。

自然と心臓が止まることを心筋梗塞というが、要は寿命ということなのだと思う。

妻の母も突然心臓が止まった。その亡くなり方がHさんと重なった。

僕たちが食事の準備をしていた18:25頃、義母は倒れたという。
そのついちょっと前まで、義姉は義母と会話をしていた。予兆はあったとはいえ、突然過ぎる展開だった。
享年71歳。若いといえば若い死。


義母の死の後、実の母と少し電話をした。

母曰く日本だと心臓が弱ってきた人はペースメーカーをつけるという。確かにペースメーカーを付けておけば、突然心臓が止まる確率は下がるだろう。

たとえば、もし義母が日本の病院で治療をうけていたら、もっと長生きできたのだろうか。

おそらく、そうだと思う。

「ベトナムの病院では高齢者は見捨てられる」

とも聞いたことがある。

ベトナムの平均寿命は、76歳と言われるが、日本の84歳と比べると8歳ほど若い。中国も76歳くらいで、この8歳の違いは、医療の違いだと思う。
日本は、医療のおかげで寿命を延ばせていられる。

一方で、日本では高齢化社会と介護者不足が問題になっている。
治療で長生きさせても、寝たきりや車椅子だと介護者が必要となる。これも深刻な社会問題だ。親の近くにいないと介護できない。
近年日本では、家族の介護のために、会社を辞める人が増えている。僕の身近にも、親の介護のために帰国を選んだ人がいる。

自分の親だから見捨てる訳にはいかない。

一方で、親の立場ならどうだろうか。
自分の子供が、仕事を辞めて自分の介護をする。

僕だったら、
「自分の息子に辛い思いをさせてまで生きながらえたくない」
と思う。

だけど、子供の立場だったら、
「親には長生きしてほしい」
と考えるのは自然なことだろう。 

2018年12月25日(火)

12月25日になった。

通夜は朝まで続いていた。

僕は息子と一緒に少し寝てしまったが、妻をはじめほとんどの親族は一睡もせずに朝を迎えた。

突然の訃報にかかわらず、通夜に弔問してくれた人は50人を超えた。

ビンズンのあるベトナム南部は常夏の国だ。
一年を通して20度を下回ることはめったにない。気候の変化がほとんどない過ごしやすい地域だ。 

一方で、タイビンのあるベトナム北部は、四季がある。日本ほど冷え込むわけではないが、この季節は10度を下回る日がある。

暖房があれば良いが、ほとんどの家には暖房器具はない。

義母の遺体はこれから、北部タイビンへ移送される。
前述したが、ここからタイビンまでは1550キロあり、車の移動だと24時間以上かかる。 

朝6時過ぎに、棺が届いた。

そして、花や義母の私財と一緒に、義母は棺の中に移された。

7時過ぎになると、僧侶が現れた。

僕たち親族は白装束に着替えて、僧侶のお経を聞いた。

義母と僕の妻と兄妹たちは、9時にタイビンへ旅立つ。

7時半から9時までは、焼香の時間となった。
義母には、ビンズンにも多くの知人がいて、たくさんの人が弔問した。

僕の涙腺に触れたのは、涙ぐんでひざまずく乳母の姿だった。義母が倒れたときも、枕飾りの準備の奔走してくれた。妻や義姉が泣いているにもかかわらず、朝になるまで冷静にサポートしてくれたのが、息子の乳母であり、この家のパートナーである彼女だった。

彼女は、息子が1歳のときからの付き合いだから、義母とも4年間一緒に暮らしてきた。
普段から頼りになる彼女が泣いている姿に僕の胸も締め付けられた。

そして、多くの人が焼香を終えた9時ころ、義母と僕の妻、そして長男である義兄と長女である義姉は、救急車に乗り込んでタイビンへ向けて旅立つ準備を始めた。

そう、なぜか霊柩車ではなくて、救急車。それはまだ告別式が済んでいないからだ。

義母の棺は蓋をされ、飾付けされた。
そして、救急車に運び込まれる。
多くの人が泣きながらその様子をみている。
すすり泣きする声があちこちから聞こえてくる。

棺が救急車に入ると続いて、白装束に身を包んだまま義姉と義兄、そして妻が乗り込んだ。

これから、家族の最後の旅行が始まる。
夜通しで救急車は、北へ向かって走り続ける。

冷たくなった母親と兄妹が3人。

僕と息子は、多くの人に囲まれる中、その救急車が旅立つ様子を見送っていた。

この日の夜、僕と息子も飛行機でタイビンへ向かう。
同行者は多い。
義姉の夫と子供たち、そして義兄の4歳になる長男、そして僕と息子だ。
義兄には3歳と0歳の娘がいるから、義兄の妻と娘は同行できない。だから、親なしで長旅に出ることになった4歳の甥っ子にも試練の時だった。実際に、ホーチミンの空港で甥っ子(義兄の息子)が泣き出す場面もあった。
しかし幸い、甥っ子とうちの息子の仲がよく、遊んでいるうちに元気を取り戻した。

18:30のホーチミン発の飛行機に乗り、ハイフォンの空港に着いたのは2時間後の20:30過ぎ、そこから乗合バスに乗り込み、妻の故郷に着いたのは22:00を過ぎていた。

もちろん、義母と妻を乗せた救急車はまだ着かない。
25日の9時に出発した救急車が到着するのは、早くても26日の午前11時だ。

2018年12月26日(水)

前述したが、義母には二人の弟がいる。
彼らは僕にとっては叔父にあたる。

何の縁かわからないが、彼らも家具作りの職人だ。そのおかげか、僕と叔父たちは仲がいい。

義母は、叔父たちにとっては姉にあたるが、叔父たちはあまり落ち込んでいる様子がない。むしろいつもどおりだ。

二人の叔父の家は、細い道を挟んで向かい合って建っている。
また、周辺の家もみんな親戚だから、一歩外を出たらみな顔見知りだ。
田舎の良さがここにある。

朝の5時過ぎ頃、周りが騒がしくなり目を覚ました。通夜と告別式の準備がはじまったようだ。ベトナムの朝は早い。

外へ出ると、叔父の奥さんに促され朝食へ連れて行かれた。
フォーが出てきた。北部のフォーは塩っぱくて僕好みの味だった。

なんだか平和なこの田舎の景色をみていると、
「昨日までの悲劇が夢だったのではないか」
と思えてくる。
それは、こっちの人たちが妙に落ち着いているせいもあるだろう。

しかし、叔父の家の庭ではテントが張られ、テーブルと椅子が並べられて、着々と通夜の準備がはじまっていた。

そして、午前11時になる少し前、もうすぐ義母を乗せた車が到着するとのことで、大通りまで迎えにでかけた。
このときも、親戚を含めて多くの人が道に集まった。
さっきまで、落ち着いていた人たちも泣きながら、義母の入った棺を迎えた。

やはり、義母の死は夢ではなかった。

妻とも26時間ぶりに再会した。
車の中ではほとんど眠れなかったのと、泣き続けているのと、精神的な疲労のせいでひどく老け込んで見えた。

彼らの試練はまだ終わらない。
通夜はこれからなのだ。

祭壇には義母の慰霊が飾られ、ベトナム独特の弦の楽器と太鼓などを持ったベトナムの民謡楽隊がスタンバイしている。
祭壇の向かって右側には、白装束を身にまとった義兄が棒を持ちうなだれている。
祭壇に向かって左側には、妻が白い頬かむりして、うつむき加減に座り込んでいる。

義母の祭壇と悲しみにくれる白装束の息子と娘。その姿に妙な美しさを感じてしまった。

これも儀式の一つだ。

お通夜の始まりは、親類の代表者が集められた。
血縁者にはもれなく、白い巾を配られた。
僕は、既に25日の朝に配られた巾を頭に巻いている。

その後は、各家族ごとで焼香を行う。
楽隊の音楽と共に弔問者が入ってくる。代表者1人が線香をあげる。

義兄と僕の妻は、弔問者が続く限りは、祭壇の前から身動きできない。

これが、午後2時から夜9時まで続いた。

僕や息子は、入り口の近くで立ち弔問者を迎え続けた。
唯一救いだったのは、この日はあまり寒くなかったことだ。

しかし、ベトナムの通夜は騒がしい。
民謡楽隊の鳴らす音が大きく、まともに会話ができない。これが夜中まで続いたらたまらない、と思った。

夜の9時で撤収したのは、田舎だからか、翌朝の告別式朝早いからか、僕にはわからなかった。

義母が亡くなってから、もう48時間以上が過ぎていた。
長いような短いような、非日常的な瞬間の連続で時間の感覚がない。
こうして12月26日が終わった。残すは、翌日の告別式と葬儀だけだ。

2018年12月27日(木)

鳴り響く楽隊の音楽で目が覚めた。
ちょうど時計はちょうど6時をさしていた。

通夜が9時に終わったおかげで、昨夜は妻も眠る時間があったようだ。僕は彼女の健康の方が心配だ。

この長かった義母の弔事は今日で終わる。

朝から登場したのは、集団でやってきた音楽隊だった。
昨日のベトナム民謡楽隊ではなくて、太鼓やトランペットを手に、白い楽華隊の服を身にまとったマーチングバンドがやってきた。

とうとう告別式が始まるのだ。
壮大な音楽で、義母との別れがはじまった。


ベトナムの告別式

そして、告別式が終わると義母の棺桶は、霊柩車に乗せられた。
軍隊の行進のように、マーチングバンドに率いられて、棺を載せた車は進みだした。
マーチングバンドを先頭にして、その後ろには杖を両手にして、義兄が後ろ向きで進む。義母の棺桶を見つめたまま、ゆっくりと進んでいく。
義姉と妻は、棺の乗った霊柩車にしがみつき、泣きながら進む。

その前後には大勢の人が、取り囲むようにして行列となった。
周りを見渡すと、本当に多くの人がこの葬儀に参列してくれたのがわかった。

目指す先は、約2キロ先にある、墓場であった。
棺桶のまま土葬されることになる。

最後の別れに、参列者は皆涙ぐんでいる。
マーチングバンドの盛大な音楽とともに、すすり泣きしながら進む行進は、約1時間ほどかけて、義母が眠る場所へと向かった。

ベトナムは今でも土葬である。
ホーチミンやハノイなどでは火葬も増えているようだが、地方の田舎では未だに土葬が続いている。

棺桶を埋めるために掘られた土は深く、大人一人が立てるくらいの深さであった。
棺を納めると、皆が小銭を投げ込んだ。
小銭を投げ込んだあと、叔父から土っころを渡された。これも投げ込んだ。
これで葬儀は終わった。

ここでまた儀式を行うのかと思っていたが、これで終わりであった。
棺を納めたあとは、なんともあっけない終わり方だと感じた。

叔父の家まで戻ると最後の宴会が始まった。
親戚一同がそれぞれのテーブルで食事をしながら盛り上がっている。
この点は、やはり日本とは違い、葬式だからといって静かに食事をするのではなく、飲んで盛り上がるのがベトナム式だ。

僕が妻の故郷に来たのは2回目だった。
ここで感じたことは、ベトナムの血縁関係の絆の強さだ。遠い親戚だろうが、多少同じ血を引いていれば、皆家族。日本人にとってはわずらわしいほどで、そして複雑。

色んな親類を紹介されたが、誰が誰だか、いまだにわからない。
しかし、今回の葬儀をみていても、ほとんどが血縁者だけで運営されていた。

プロ以外ができることは、ほとんど自分たちで行ってしまうのだ。たとえば、食事の準備や会場の設置などは、全て血縁者だけで行っていた。

「竹垣の中には皇帝の威令も届かない。」

ベトナムは、王侯貴族以外はほとんどが農村で暮らす農民だった。地方へ行くと、村落で共同体を作って暮らしていた習慣が強く残っているのだ。
ベトナムの伝統的村落共同体は、「Làng(ラン)=村」あるいは「 Xã(サ~)=社」と呼ばれる。村の外側は竹垣、内側は土塁が積まれ、竹垣の中に村落共同体がある。先祖を祀った廟や仏寺、また共同井戸などがあった。
村の中は平和だが、一歩外へ出ればみな他人であった。
これは19世紀ころまでのベトナムの話。

日本の地方でも似たような村落はあり、日本の地方出身者であれば理解できる部分もあるのではないだろうか。
外からやってきたよそ者が田舎に住むのは難しい。それはベトナムでも田舎でも同じだろう。

村単位での共同体が強いと国の法令遵守という意味では難しい。
例えば、タイビンの町中では、バイク運転時のヘルメット着用率が非常に低い。この狭い地域内でヘルメットかぶる必要はないのだろう。ハノイ市内のように公安(交通警察)が取締をすることもない。

一方で、地方のため仕事が少なく、高齢者が多い。叔父の娘夫婦は、みな都心のハイフォンまで働きに出ている。
地方の高齢化、都市の一極集中化は、日本とは変わらない。
また、地域の共同体に治安や経済を頼っていることから、なかなかインフラが発展してない。2年前に訪れた風景から、この地域はなにも変わっていなかった。
都心と田舎は時の流れが違い、インフラの格差、経済的な格差はさらに広がっていくことだろう。

義母の死から、ずいぶん話が逸れてしまった。
東京西部で生まれ、母子家庭で育った僕からすると、ベトナムの血縁事情はショッキングなことが多く、つい余計な話まで書いてしまった。

余計ついでに書くと、ベトナムは地方によってかなり訛りがキツい地域がある。

一言口を開けばよそ者というのはすぐわかる。ハノイやホーチミンの言葉は聞き取りやすいが、妻の田舎タイビンは訛りがキツく、僕はここの高齢者とはほとんど会話ができない。

葬儀のあと、二日間は親類の家を周り、朝昼晩と各所で飲み会が続いた。
タイビン最後の日は、ベトナム北部を寒波が襲い、朝は10度位まで冷え込んだ。

2019年1月1日

2019年元旦の朝

「あけましておめでとう」

と妻から言われた。

僕たちは、ベトナム南部の南国の街ビンズンに戻ってきていた。
ベトナムの元旦はまだ来ていないが、日本の元旦なので気を使ってくれたようだ。
日本では、忌中も含め喪中に新年を祝うのは厳禁とされているが、ベトナムでは問題ないらしい。

義母は経験な仏教徒だった。
毎月、旧暦の1日と15日には、お供え物をしてお経を上げていた。

そのため、義母の葬儀は仏教式で行った。
次の法要は四十九日だが、旧正月にかかってしまうため、日程を前倒しで行うらしい。
その時期は、僕はちょうど日本に帰国するので参加できそうにない。

長々と書いてきたが、そろそろまとめに入りたいと思う。

ここまで書いてみた実感しているのは、日本とベトナムの文化は表面的には違う形に仕上がっているが、もとを辿れば共通した背景を持っている。

仏教、儒教そして中国文化の影響、

表面的な強弱の違いはあるが、考え方は共通している。
だから、なんとなくわかり合える部分がある。

夕食になると、妻がいつもより一つ茶碗を多く用意した。ご飯とおかずを盛って、水と箸を添えて、テーブルに置いた。
もちろん意味はわかった。義母の食事を供えたのだ。

ビンズンに戻って来てから、日常生活に戻っているが、やはりもう義母はいないのだ。僕は死別の瞬間よりも、もう戻って来ない義母との時間を実感した時に、寂しさを感じる。

別れの瞬間よりも、居ないことを実感する方が悲しい。

生き別れなら、また会える可能性がある。

しかし、死別は永遠の別れ。

2018年は、Hさんの死からはじまり、義母の死で幕を閉じた。

「今、一緒にいる人との瞬間を大事に生きろ」

と誰かから言われている気分だ。

1日1日が過ぎる度に僕たちは死に向かって歩いている。
しかし、どうやって生きるか考えて生きている人は多いが、どうやって死ぬかなんて考えている人は少ない。

死を前提に生きるのではなくて、生を前提に生きている。
Hさんも義母も、まさか、死が近づいているなんて思っていなかっただろう。心の準備なんてできていなかった。本人にとっても遺された家族にとっても突然過ぎる死別だった。

だけど、僕たちはまた会える。

誰が教えたのかわからないが、4歳の息子の発言にはドキッとさせられることがある。

「おばあちゃんは、死んだから小さくなるんだよね?」

僕は、ああそうだよ。と答えた。
死んだら小さくなる。消えてしまうのではなくて小さくなる。

小さくなって生まれ変わる。

これは仏教を背景にしている国にしか理解できない、輪廻転生の考え方。

誰が息子にこんなことを教えたのだろうか?

そうか、これから生まれてくる身近な命は、義母の生まれ変わりかもしれない。

そろそろ、この長い記録を終わらせたいと思う。

この記録を通して、少しでも身近な人の死について考えてくれれば、そしてベトナムに興味を持っていただけたのなら本望だ。

最後まで、このとりとめのない文章をここまで読んでくれた方に感謝を申し上げたい。

筆者プロフィール:Koike Yusuke
海外の家具メーカーで働く、商品開発エンジニア兼デザイナー。
木造建築士 / カラーコーディネーター1級(商品色彩)/ マーケティング検定
(Twitterはお気軽にフォローください!@yusukekoike21

葬儀の様子

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