社会人としてエッセンシャル思考を人生に活かすには

今回は、グレーグ・マキューンの著書「エッセンシャル思考」から「意識的な選択」な生き方についてまとめ。
本文を引用したり、僕の意見や経験を勝手に突っ込んだり、ドラマ【わたし、定時で帰ります】のセリフを引用しつつ、会社員として自分らしい人生を生きるための方法を探ってみたい。

優秀な人ほど成功のパラドックスに陥りやすい

先日まで放送されていたドラマ、【わたし、定時で帰ります】にこんなセリフが出てきた。
「仕事は仕事ができるやつのところに集まるんだ」

また、知り合いの大御所デザイナーはこうも言っていた。
「昔から忙しい人に仕事を頼めと言うんだ」

優秀な人、仕事ができる人には仕事が集まる。その結果がこれ

第1段階

目標をしっかり見定め、成功へと一直線に進んでいく。

第2段階

成功した結果、「頼れる人」という評判を得る。「あの人に任せておけば大丈夫」と言われ、どんどん多様な仕事を振られるようになる。

第3段階

やることが増えすぎて、時間とエネルギーがどんどん拡散されていく。疲れるばかりで全てが中途半端になる。

第4段階

本当にやるべきことができなくなる。成功したせいで、自分を成功に導いてくれた方向性を見失ってしまう。

引用:エッセンシャル思考

「それなりに頑張ってきたのに、もっとできるよう人間になれって煽られるのもなかなか辛いと思うんですよね。」
これも、【わたし、定時で帰ります】で主人公結衣がいった言葉。

会社に入り、上司に認めてもらいたくて、がんばり結果を出すのはすばらしいこと。しかし、一度結果を出すと、失敗するまでずーっと結果を出し続けなければならない。
上司がマネジメント能力の長けた人ならいいけど、ヘボ上司は部下に仕事をまかせっきりで、問題が起きたら怒鳴りつけるだけ。悪循環は永遠に続く。結局、仕事ができる人は疲弊していく。

エッセンシャル思考では、上司やまわりの人と気まずくなるのも承知で、一度「断ること」を強く推している。

いまの50代~60代の方たちは、お客様や上司に対してそ「断ること」「ノー」言うこと自体タブーとされてきた。

しかし
「わかりました!やります!」
と言っていても、結局やれないなら、相手にとっては不誠実な結果を与えるだけ。

結果としてダメになるような話は、最初から相手に対しては誠実な解答「ノー」と言うべきではないだろうか。
実際に、すぐ「わかりました!」と応える人は、わかっていない。もしくは、「わかりました!」の連発でキャパオーバーになり、仕事を処理しきれなくなる。

規律なき拡大は失敗への道

ジム・コリンズは、

失敗の主な理由は企業が規律なき拡大路線に陥ったことだ」と言っている。

そもそも、人はなぜ方向性を見失うのか

人が方向性を見失うには、いくつか理由がある。

  • 選択肢が多すぎる
  • 他人の意見がうるさすぎる
  • 欲張りの時代

「全部手に入れよう、全部やろう」とするうちに、知らず知らず何かを失っている。自分のエネルギーをどこに注ぐか決めておかないと、親や上司に自分のやるべきことを決められてしまう。自分で選べない人は、他人の言いなりになるしかない。

そこで溜まった不満やストレスを、ゲームやお酒や女遊びに向けて発散させようとしても、お金と時間があるうちはいいけど、それが尽きた時はストレスを溜め込むばかりという状況に陥る。

だったら、自分にとって一番大事なことを決めるのは、自分しかいない
しかし、生まれて言葉がわかるようになってからというもの、親や学校、そして会社にやるべきことを決められてきた。取捨選択する権利も与えられていなかった。その結果、選択能力がほぼゼロに等しくなっていないだろうか。
選択能力を強化するためには、日々意識的選択を繰り返すしかない。

意識的な選択

例えば、朝起きる時間。
朝、ぎりぎりまで寝てから出かけるか、それとも1時間くらい早く起きて、勉強なり趣味なり読書なり運動なり、有意義に過ごすか。この朝起きる時間を決めるのも選択のひとつ。

もっと細かい部分では、朝食。
朝マックにするのか日本食を食べるのか、家で食べるのか外食もしくはコンビニで買うのか。

僕たちは日々選択の連続をして時を過ごしている。しかし、それに対してあまり意識的ではない。
朝マックやコンビニは明らかに体に良くないということをわかっているのに、時間がないから、という理由で選択している人が多いのではないだろうか。

さらに、無意識的な話をしてしまうと、
「歩くとき左足を先に出すか、右足を先に出すか」
これはまさに習慣やその場における状況で、体が勝手に判断して決めている。
今日は、右足を先に出して歩こう、という意識をもって選択している人はいない。
右足から歩こうが、左足からあるこうが、どうでもいいことは、無意識な選択でもよいかもしれない。

けれど、自分にとって大事なことまでも、無意識的な選択をしてはいけない。
たとえば、どの大学へ行くのを決めるのに、
「この大学しか受からなかったから」
という理由で選んでいないだろうか?

まさに、僕自身がそうだった。
僕は現役で受験した大学は法政大学しか合格しなかった。そんな理由で法政大学へ進んだ。
一浪するという選択肢については考えなかった。
法政大学へ進むという選択をするのにかけた時間は、ほぼ一瞬だった。というか、この大学に行かない、という選択肢に気が付かなかった。大学に受かったからその大学に進んだ。
本当にそれで良かったのだろうか。

就職にしても同様。
「この会社しか内定がなかったから」
という理由で選んでないだろうか。
その内定を蹴るという選択肢に対して、どれくらい時間をかけたか?

僕は就職活動で、3社内定をもらった。けど、1社を選ぶのにそれほど時間をかけなかった。
その結果、ブラック企業に勤めてしまい、無意識的で最悪な6年間を過ごすことになった。当時の自分には正しい選択をする能力がなかったといえる。
もちろん、ほかの会社に勤めたら幸せだったかどうかは、今になってはわからない。過去に遡って、やり直すことはできない。だけど、今と未来は変えることはできるはず。

まず、未来をかえるにためには、今を意識的に生きなければならない。
意識的に選択するのもその一つ。

選ぶ能力は誰にも奪えない。ただ、本人が手放してしまうだけ

人は、なぜ選ぶ能力を手放してしまうのか

それは、学習性無力感があるから、という。
たとえば、算数の初歩でつまづき、どうやっても解けない問題に苦しんだ子供は、算数を理解しようという努力を投げ出してしまい、何をしても無駄だと思い込む。
仕事の場合も同様で、いくら努力しても無駄だという経験をした場合、反応は大きく2つに分かれる、と書かれている。

①努力をすっかりやめてしまう人
②働きすぎ、何もかもやろうとしている人。

自分では何ひとつ選べないから、すべて引き受けてしまう
僕の経験に当てはめると、最初は②で、なんでもやろうとした。でも、途中で諦めた。20代後半の僕は努力をすっかりやめてしまい、いじけて受動的な働き方をしていた。

そもそもこうなってしまうのは、目上の人や上司、顧客の命令は絶対という、幼少期から刷り込まれた思い込みによる。エッセンシャル思考では、まずこの思い込みを捨てなければならない、とある。
選ぶという行動を自分のものにして、選ぶという行為に自覚的(意識的)であるのがエッセンシャル思考
選ぶ力は自分だけのものであり、何者にも奪えないということを理解しなくてはならない。それでも、親や上司や顧客は自分の思いを押し付けて要求してくるだろう。

ここでエッセンシャル思考は極論すぎるのだけど、自分にとって大事なものだけ選択して受け入れるのがエッセンシャル思考だという。

しかし、その極端すぎる思考は、「頑固」や「わがまま」「自己中」扱いされかねない、と僕は思う。
まずは、不当に感じる要求を受けたとき
「彼らの要求を受け入れると自分がどういう状態になるのか?」
というシミュレーションしてみる。
すべてを受け入れてキャパオーバーしてしまえば、それこそお互いにとっていい結果にはならない。
ここで注意してほしいのは、必要なのは客観的な考察のみであり、「やる気があればできる」「死んでもやり遂げる」というような精神論を踏まえてはいけない。

本質的には、頑固である方が良い結果を出しやすい、と個人的には思っている。けど、コミュニケーションの仕方によっては、相手を怒らせてしまうという弊害がある。
「エッセンシャル思考を読んで、さぁさっそく実践だ!!」
といきり立つよりも、この状況はエッセンシャル思考ならどう考えるかと、意識的に状況を見つめることが大事。
そして、最終的には自分の選択力を磨き、うまいコミュニケーション能力を身につけ実践していかないと、ウィリアムズ・ジェイムスのいう「自由意志」を手に入れられない。

自分の人生を思い通りにしたいなら、他人に自分の人生を選択させない

親は言う
「あなたのことは、ママが一番わかっている。ママの言う通りにすれば、あなたは幸せになれる。」

上司は言う
「俺はおまえのことを買っている。だからおれの言うとおりにすれば、悪いようにはしない。」

いやいや、自分のことを一番わかっているのは自分でしょ。
人は他人に評価を求めようとする(承認欲求)けど、他人の評価をもとめることは、自分を他人に合わせることであり、選択権を他人にゆだねることになりかねない。

例えば、デートのとき

彼氏「何食べたい?」

彼女「なんでもいい」

彼氏「じゃあ寿司でいい?」

彼女「えー寿司、昨日も食べたじゃん。イタリアンにしようよ」

なんでもよくねぇじゃん。
他人に選択権をまかせても、自分のほしいものは手に入らない。
イタリアンが食べたいなら、最初からそう答えるべきなのに、人は思考をめんどくさがり相手にゆだねてしまいがち。

「親や上司は経験豊富だから、言っていることは正しいはず」
これも思い込み。
正しいこともあるし間違っていることもある。
「それもわかっているけど、衝突がいやだから、いうとおりにやっておけばよい。」
これは、諦めた人の考え方。

「エッセンシャル思考の人は、選ぶ力を無駄にしない。その価値を理解し、大切に実行する。選ぶ権利を手放すことは、他人に人生を決めさせることだと知っているからだ。」

ダメ押しになるけど、「7つの習慣」でも似たような内容が書かれている。

日々の生活の中で自覚を育て責任を持って第一の創造を行えるようにならなければ、自分の人生の行方を影響の輪の外にある状況や他の人達に委ねてしまうことになる。家族や同僚から押し付けられる脚本どおりに生き、他社の思惑に従い、幼い頃に教え込まれた価値観、あるいは訓練や条件づけによってできあがった脚本を演じるという、周りのプレッシャーに反応するだけの生き方となる

引用:7つの習慣

7つの習慣にある「第一の創造」とはなにか?それは「終わりを思い描くこと」。
それはクリエーターの得意とする分野のはずで、建築士なら設計図を書くことであり、漫画家なら絵コンテを描くこと。そして、自分のことなら、自分の人生設計を思い描くことで、他人に左右されない人生を歩むことができる、という。
自分の人生の脚本は自分が書く。他人に書かせてはいけない。自分の人生は自分で選択する。

だけど、自分にとって大事なことを選択して生きていくなら、トレードオフが欠かせない。

戦略には選択とトレードオフがつきもの

選択する際には、トレードオフすべきということ。「拾う」ことと「捨てる」ことは表裏一体。
何かを「拾った」時点で何かを「捨てる」日がいつか来る。

たとえとして、分かりやすいのが荷物。
20kgの荷物を抱えて歩くのと、10kgの荷物を抱えて歩くのとどちらが速いか。
小学生でもわかる問い。

ちなみに、僕もむかしバックパッカーでアジアを旅した時はなるべく荷物を軽くするようにしていた。
何か足りなければ、現地で調達すればいい。
飛行機に乗る時も制限荷重が決められている。
最近は一人40kgまでOKの航空会社もあるけど、LCCなんて乗ったら荷物制限が厳しい。荷重オーバーなら何かを捨てる、もしくか荷重料金を払うことになる。

仕事も同じで。
何でもかんでも「OK!OK!」していたらキャパオーバーになるのはわかりきっている。
だったらトレードオフをしましょうと。

本文では、

何かに「イエス」と言うことは、その他全てに「ノー」ということなのだ。

何かを選ぶことは、何かを捨てること。

簡単に「はい」と言って後で後悔していないか?
「はい」という言葉を言う前に、まずは「ノー」からはじめてみてはいかがだろうか。

絶対にイエスだと言い切れないなら、それはすなわちノーである

最近、僕がよく使うずるい方法がある。
それは、
「ノーコメント」

誰もが理解しているように、「ノーコメント」とは「ノーとコメント」するではなくて、「コメントしない」と言う対応。イエスとは言いたくないが、ノーとも言えない。
そんなときに便利な言葉が「ノーコメント」

即決のできない判断なんて山ほどあるのに、即決を迫ってくる人が多い。
かつての自分も上司に即決を仰いでいた時期があった。
リーダーは「英断する」のがカッコよくみえますが、「情報がそろうまでは判断を先延ばしする」という手法も十分に効果的な対応
しかし、部下としてはその対応は困る。
結局、部下は自分の職権内で判断して行動するか、そのままほったらかしにするかどちらか。

部下の機嫌をとって、部下の意見ばかり聞いている上司は、本人のパフォーマンスがどんどん落ちていく。かつての自分がそうだった。
「イエス」と言いたくない時は、曖昧にするのも一つの手。
もしくは、明確な基準をつくる。
基準にみたなければ、すべてノー。それがエッセンシャル思考

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